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​後川の成り立ち

武庫川支流の羽束川(別名:後川川・丹波川)上流域に位置する後川は、高山が四方をめぐり、山の後ろを川が流れているので「しりへ川」というべきを「しっかわ」と唱え、「後」の字を当てたと伝えられる。古代には、多紀郡部八郷のひとつ余戸郷を形成し、「和名抄」には四周山峰に囲まれ他村と隔絶し、自ら土地を成した郷と紹介されている。奈良時代には流域一帯は東大寺の荘園領となり、天平20年(748年)というから丹波国で最も早く成立した荘園の地となる。江戸前期に後川村から後川上村、後川中村、後川下村の3ヶ村に分村し、松平忠国の時に後川新田村を加え、幕末の嘉永6年(1853年)に後川下村から後川奥村が分村したと記録にある。

 

現在もこの5集落によって構成され、平家の落武者が傷を癒すのに隠れ住んだと伝えられる「最坊温泉」は、羽東川支流である札辻川中ほどの後川新田村にある。明治末期には1000人を超え、世帯数も200を数えた。中心集落の後川上村にはかつて東大寺の荘園後藤原氏が治めたことを物語るように天福元年(1233年)に成立したと伝えられる春日神社が鎮座している。

 

​後川の5集落

 〇 後川新田

羽束川の最上流域にあたる後川新田は、支流の原川と札辻川の谷筋によって構成されている。札辻川の南に大野山がそびえる山峡の谷筋に沿って篭坊温泉街を構成しており、廃屋となった宿舎もあるが、今でも数件の料理旅館が一筋の川に沿って帯状に分布している。

 〇 後川上

羽束川の蛇行に合わせて家屋が分布しており、現在家屋は、最上流部の湯の谷、竜春日神社のある後川上東、向井川の合流部、後川上西に分かれ形成し、塊村集落をなす後川上以外は数件ずつ点在分布する散居集落となっている。向井川と熊丸川の合流する谷筋に篠山渓谷の森公園が整備されている。

 〇 後川中

寺谷川沿いの山手に、後川稲荷神社(五社稲荷)を配し、その西の尾根に接するように禅寺の清陰寺が位置している。清陰寺は、1423年開創され、ハ上城の攻防戦で消失、1682年再建、現在の建物は、1793年建設されたものだ。江戸期には丹波から摂津への交通の要衝地として商売人や円波社氏などの住来人が多く、その参拝客でにぎわった後川稲荷神社は、願済みに奉納した大小千数百個の鈴を奉納した鈴堂や真っ赤に塗られた眷族堂がある。対岸の字向井ヶ市には、1241年原谷から移した春日神社が鎮座している。現在の本殿は1849年再建されたもの南の大野山には日光寺跡がありその下に松平の七つ石という境界石がある。

 〇 後川下

丹波地域の羽束川沿いの最下流部に形成された集落で、流下する谷川支流に沿って南に緩やかに傾斜する山裾に集落を形成している。東の山裾山腹に稲荷神社を祀り、西側の山手にはサイの神と思われる「山の神」が位置し、集落域の結界が構成されている。

 〇 後川奥

羽束川支流である奥川の浸食作用に伴う谷筋の傾斜面に沿って形成された集落で、開墾された棚田を活かしながらひな壇型に石積み造成された敷地に家屋が配されている。集落内は、石積み護岸に改修された奥川とともに垂直方向に見上げ見下ろす独自の力強い景観を構成している。

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